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大きくなったら--- [ちょっと、一息 31]


[時計]大きくなったら----



    新聞の投稿欄に81歳の男性からのこんな記述があった。

    「小学一年生の孫の誕生日に、孫から『おじいちゃんは、大きくなったら何になるの?』と、訊かれた。80歳もすぎている自分にこんな質問を投げかけられて戸惑ったが、『学校の先生かな?』と、答えると、孫は、『あたしは、保育園の先生になりたい』と、言った」

    どんなに年をとっても、何か目標を持って生きられれば、それほど幸せなことはないという投稿者の気持ちが、文章から伝わってきた。

    「新しいことに挑戦するのに、年齢は関係ない」

    と、いう人もいる。

    歳だから----と、諦めるのではなく、歳だからこそ挑戦する意味があるのだと、発想を転換することが、これからの超高齢社会には大事なのではないだろうか。

    50代で教師をやめて弁護士に、そして定年後に僧侶になった人だっているのだから、80歳を過ぎて教師になる人がいても不思議ではない。

    日本は、職業に就く時期に年齢制限をもうけ過ぎだと思う。

    新卒者じゃなければ採用しないなどの条件を、暗黙のうちに決めている企業が多いせいで、わざと留年する学生もいるそうだ。

    ほとんどの就職先には採用は何歳までというような基準があるが、たとえば35歳までとしても、35歳と36歳でどれほどの能力差があるというのだろうか。

    40歳でも心身ともに疲労していて何の才能もない人がいれば、一方で60歳で体力気力ともに充実した才能豊かな人だっている。

    本来、人間の価値は、年齢で計れるものではないはずなのである。

    ただ、高齢者が働き過ぎると、若者の就職口が狭くなるという意見があることも事実だ。

    だから、定年制など一定の線引きは必要だろう。しかし、そのあとでもまだ働く意欲のある人が再スタートしやすい社会の仕組みを作ることも大事ではないだろうか。

    何度でも、何歳からでもチャレンジし直せる世の中----それが充実出来なくては、これからさらに少子化が加速する日本は、世界で生き残ることが出来ないのではないかと懸念されてならない。

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話題あれこれ ② [ちょっと、一息 31]


[黒ハート]話題あれこれ ②




    バレンタインデーも最近は、義理チョコならぬ友チョコなども出て来て、チョコレートは女性から男性へ贈るものという定義が崩れつつある。

    わたしは、学生の頃から、バレンタインデーの贈り物を、チョコレートとは限定していなかったし、恋愛感情などまったく抜きで、女性男性問わずに贈っていたように思う。

    もちろん、普通にチョコレートを贈ることもあるが、ある時は街で見つけたおしゃれなマグカップだったり、小瓶入りのお酒をプレゼントしたこともある。

    そして、最近の定番は、バレンタイン・カードや手紙。

    わたしにとってのバレンタインデーは、言わば「スプリング・グリーティング」の意味合いが濃いということだろう。

    文字通り、「春のご挨拶」である。

    二月は、雪深い信州ではまだまだ極寒の季節だが、それでも「春のご挨拶」を贈ることで、少しでも厳しい寒さを忘れて頂ければと思いながらカードを書いている。

    今や、簡単な連絡はほとんどメールで済ませてしまう世の中だが、わたし自身も一年の節目くらいは直筆の手紙をもらうと嬉しいものだ。

    もしもチョコレートを贈るのならば、今年のバレンタインデーは、そこに一通のカードを添えてみたら如何だろうか?

    もちろん、カードだけでもいいと思う。

    ちょっぴり、春の息吹を感じる暖かな気分で、寒中を乗り切ってもらえることを信じて----。




    街に若い男女の観光客の姿が目立つ。

    彼らは、背も高く、おしゃれで、モデルのように美男美女ぞろいだ。

    顔はアジア系だが、日本人でないことは話し言葉で判る。

    何処から来たのか?----と、質問したところ、

    「香港です」

    との答え。

    今年は、オーストラリア、香港、台湾からの観光客が急増している。

    こんな信州の田舎も、なんと国際的になったものだ。

    ただ、コンビニなどでは、会計前に店内で商品を食べ始めてしまうという外国人もいるそうで、マナーには気を付けて欲しいものである。

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イジメの結末 [ちょっと、一息 31]


[スペード]イジメの結末




    パソコンの遠隔操作で警察をかく乱し、何人もの罪のない人たちを犯罪者に仕立てた男性が逮捕されたというニュース番組を観た。

    この男性は、遠隔操作ウイルスのデータが入った記憶媒体を江の島にいる猫の首輪につけたことで、四都道府県の警察の合同捜査チームが防犯カメラの画像などを詳細にチェックし、彼を容疑者として特定したのだという。

    だが、男性自身は、容疑を否認しているそうだ・・・。

    実は、男性は、今から八年前にもネットに脅迫的な文言を書き込んだという容疑で逮捕起訴されていたという。

    この時の裁判で、男性の母親は、男性がこのような文章を書き込んだ背景にあるものは、男性が子供の頃に受けていた陰惨なイジメにあると証言したのだそうである。

    男性は、子供の頃から頭は良かったものの、人当たりが下手で、クラスメートから「気持ち悪い」とか「暗い」などと言われ、孤立を深めていたということで、頭をのこぎりで切られたこともあったという。

    そんな体験から、世の中の人たちが全て自分を敵視しているような感情を持つようになり、自己防衛の意図も込めて、存在感を知らしめんとしたのではないかと弁護士は彼を擁護したのだそうである。

    ところが、そのことがあってからというもの、男性の母親は他人の白い目が気になって素顔で買い物に行くことも出来なくなり、外出にはマスクや帽子が手放せなくなったという。

    「どうして、警察も世間も、ここまで自分たちを苛め、苦しめるんだ!?」

    そんなすさんだ気持ちが、男性に今回のパソコンの遠隔操作犯罪を思い切らせてしまったのではないかと、番組は伝えていた。

    「おそらく、彼は世間にかまってもらいたかったんじゃないでしょうか?猫カフェへ足しげく通い、『猫だけは自分を裏切らない』と言っていたようですし、今の自分の孤独な現状を受け入れたくないという思いが、犯罪を通じてでも社会とつながることを選んでしまったのかもしれませんね」

    コメンテーターの女性作家は、「自分もかつてイジメられていたことがある」と体験談を交えながらも語り、

    「だからこそ、人が嫌がることはしないようにしようと思うのだが、無実の人を犯罪者に仕立てるという非道な真似がどうして出来たのかが判らない」

    と、首を傾げていた。

    とはいえ、イジメとは、ここまで人間をねじ曲げてしまうほどの何一つ展望のない卑劣な行為であることを、改めて思い知らされる事件でもあった。

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話題あれこれ [ちょっと、一息 31]


[ダイヤ]話題あれこれ



    また、今朝の寒さは尋常ではないくらいすごかったな・・・。

    (*_*)顔が凍りつく・・・

    いつまで、こんな日が続くんだろう?

    低体温症になり救急車で運ばれるお年寄りが後を絶たない。

    ここ二日ばかり、何度も救急車のサイレン音を聞いた。




    先日テレビで放送した映画『96時間』----ものすごい心配性で子煩悩な元アメリカ政府工作員の父親が、旅行先のフランスで女友達とともに人身売買組織に誘拐された愛娘を、命懸けで奪還するという内容だったが、娘のためならば他国の法律など破るのが当たり前、友人の妻だって容赦しないという徹底ぶりには、むしろ清々しささえ感じるほどだった。

    ストーリーには所どころ「?」な部分も無きにしも非ずだったが、まあ、そんなことはささいな問題だとばかりに、強引に突き進んで行くバイオレンスアクションの連続には、「これほどの鬼の執念で捜索してくれる父親がいるならば、世の中から誘拐などはなくなるだろうな」と、思わずにはいられない。

    それに、見知らぬ土地へ行った時は、空港で待っているタクシーにも安易に乗ってはいけないという警告も、この映画は発しているようだった。




   
    ところで、近所で時々顔を合わせる女性なのだが、人から手を貸してもらうことを好まず、助けてもらっても絶対に礼を言わない。

    この間など、彼女が忘れ物をしていたので、それを届けたら、照れ隠しのつもりなのか苦笑いしただけで、お礼の一言も言わないままに、まるで汚い物でも渡されたように廊下の隅の方へそれを放り投げた。

    彼女は、生まれながらの特殊な境遇に育った女性で、他人の親切を嫌がらせのようにしか感じないという人生観が染みついてしまっているのかもしれないが、それにしても、大人の常識からすればかなりの変わり者である。

    母親の口癖ではないが、

    「近頃は、どうしてこんなにまともでない人間ばかりが増えてしまったのだろうか?昭和の時代が懐かしい・・・」

    普通の会話が出来ない人たちが多くなってしまったのは事実だ。

    人間は、自分が不幸だと思うようになると、途端に周囲のものすべてが憎らしくなるという。

    あの長野県北部地震の際も、避難所では、これまで親しかった住民同士の間にも険悪な空気がたちこめたという。

    長引く不況が、人々の心までもささくれ立たせてしまったのかもしれない。

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日々の雑感 18 [ちょっと、一息 31]


[やや欠け月]日々の雑感 18



    ブログの中にメンタリズムに関する記述があると、つい興味が出て開けてしまうのだが、何と言うか・・・、わたしの読解力が乏しいせいか、書かれてある内容が良く理解できない。

    筆者が何を言いたいのか判らないのだ。

    読者に何を知らせたいのかが汲み取れない。

    人に何かを説明するということは、ある意味とてもセンシティブな作業でもある。

    せっかく蓄えている豊富な知識を、語彙力がともなわないために伝えられないというのでは何とももったいない。

    読んでいる方は、皆、素人である。

    専門家はとかく専門用語や横文字を並べて知識自慢をしがちだが、そこをグッと堪えて小学生にでも理解出来るような平易な言葉で教えるのが、本物なのではないだろうか。

    メンタルを勉強する前に、まずは判りやすい日本語の使い方を学んで欲しいということかな。





    「世界一受けたい授業」だったかな?

    教育評論家でコメンテーターの尾木直樹さんが、これからの日本人に必要なものは、「批判力」であると話していた。

    「批判力」とは、何か物事に接した時、それが本当に正しいのか?必要なものなのか?など逆の視点で観察する力のことをいう。

    こうした力を付けることにより、文章の「読解力」も伸びるのだそうだ。

    では、どのような訓練をすれば、この「批判力」や「読解力」が身に付くのだろうか?

    それには、「発想の柔軟性」が不可欠で、たとえば、「バレンタイン」という言葉から、何処まで発想を広げられるかを訓練する----と、いうようなやり方もあるという。

    たとえば、「バレンタイン」----「野球の監督」----「ロッテ」----「ガム」----「のびる」----「ゴム」----「タイヤ」----「自動車」----「ガソリン」----「石油」----「プラント」----「アルジェリア」----「アフリカ」----「サバンナ」----「お笑い」----「人気」----「好き」----「恋人」----「バレンタイン」

    というような具合に、一つのジャンルに小さくこだわらずに何処まで想像力を発展させられるかということも、このゲームには大事なのだそうである。

    悪い例としては、「バレンタイン」----「恋愛」----「恋人」----「欲しい」----「いない」----「寂しい」のようなものがあるという。

    子供さんと遊び感覚でチャレンジしても楽しいのではないだろうか?

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日々の雑感 17 [ちょっと、一息 31]


[雪]日々の雑感 17



    
    情報番組では、首都圏に雪の予報が出ると、わざわざ「雪道の歩き方」なるものをアドバイスするコーナーを設ける。

    「熱いお鍋を両手で持つ感覚で、やや前かがみに」

    「足の置き方は、地面と平行に。道路へスタンプを押す要領で歩く」

    「膝は曲げて、原始人歩き。転んでも頭を打たないように、歩幅はせまく」

    しかし、あれを見ていて思うのだが、

    「歩き方よりも、靴を何とかするべきでしょ?」

    と----。

    大雪の日にハイヒールを履いていて、歩き方をどんなに学んだって、そりゃ転ぶでしょ----と、いうことなのだ。

    「雪だからブーツ履いて来ました」

    と、いうOLもいたが、そのおしゃれブーツ、靴底の溝はあるの?

    問題は、靴の丈ではなく靴底の溝の深さだと思うのだけれど、首都圏の人たちは、どうもそういうところには注意が及ばないようだ。

    早朝に新聞配達する人に聞けば、

    「雪道はまだいい方。怖いのはアイスバーン。一番滑りにくい靴は、やっぱりゴム長。荒縄を巻きつければ、たいてい転ばずに行けるよ」

    とのことだった。

    わたしも、以前はスノーブーツに滑り止めを装着して歩いていたことがあるし、かかとの部分に出し入れ可能な滑り止めがついているスノーブーツも持っている。

    これはまだ試したことはないのだが、ブーツの上からいらなくなった靴下をかぶせるという方法で、滑り止めの代わりにしている人もいるそうだ。

    雪国で暮らす人たちは、暖かな都市部で暮らす人たちには想像も出来ないような苦労があるのだ。

    番組のコメンテーターの一人が、雪国に住む人たちの大変さを聞いて、「何も、そんな不便なところに住まなくても・・・」と、言っていたが、もう一人の別のゲストがそれに反論した。

    「そういう不便な所に住んでくれている人たちがいるから、日本の国土は荒廃しなくて済んでいる。国土の隅々にまで住民がいて、田畑を守ってくれているから、大洪水や干ばつを防ぐことも出来るんですよ。おいしくて安全な水が飲めるのも、そういう人たちが土地を見守っていてくれるおかげなんです」

    本当にその通りである。

    今回首都圏に降った雪など、わたしたちにしてみればスズメの涙ほどのものだが、それでも、公共交通網に乱れなどもあり、爪の垢ほどでも雪国の大変さを勉強したのではないかと思う。

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地域のガソリンスタンドが消える [ちょっと、一息 31]


[車(RV)]地域のガソリンスタンドが消える



    ここ二日の寒さは、また恐ろしいものがある。

    再度、水道を凍らせてしまった。

    今、この春からの消防法改正が原因で、地域のガソリンスタンドが大変な窮地に追い込まれているとのテレビニュースを観た。

    40年以上使われているガソリンや重油、灯油などを入れるタンクの使用が禁止となり、県内でも多くのガソリンスタンドが、タンクの補修や新しいタンクを造る費用を支払う目処が立たずに、廃業せざるを得なくなっているのだという。

    タンクの補修工事には、約200万円~約500万円、新たにタンクを造ることになると、何と約1000万円ものお金がかかるのだそうだ。

    かつての高度成長時代ならば、自動車の販売台数もウナギ登りだったために、ガソリンや重油、軽油なども飛ぶように売れた。

    しかし、今のような不景気では、自動車販売台数も減少し、ガソリンスタンド経営者も高齢化していることなどから、とても新たな設備投資など出来るものではない。

    事情が考慮されれば、タンク入れ替えのため最大三分の二までの補助金が国から下りるという可能性も無きにしも非ずだそうだが、それでも、残金は経営者持ちとなる。

    そんな訳で、ガソリン販売をやめて、灯油のみを販売する方向に商売を縮小したり、スタンドの経営そのものをやめてしまうという人たちが出て来たのだという。

    ところが、小さな村などの場合、ガソリンスタンドが一軒しかないという場所もある。

    そのスタンドが商売をやめてしまうと、地域住民はガソリンも灯油も遠方まで買い出しに行かなければならなくなり、生活に多大な支障が出て来てしまうのである。

    そうした特殊な事情の地域では、村唯一のガソリンスタンド存続させるために、自治体が国に交渉し、新しいスタンド建設費用として補助金の申請に動いている例もあるそうだ。

    豪雪地として知られる栄村に二軒あるガソリンスタンドも、そうした岐路に直面しているが、経営者の一人は、

    「栄村は2011年の大地震の際に、ガソリンや灯油がどれほど住民にとって貴重なものかを改めて学んだ。スタンドを一軒に統合してしまうという案もあったが、そうなると豪雪地帯のため、距離的に冬は灯油を買えなくなってしまう住民も出て来る。しかも、栄村で冬季に住民が使用するトータルの灯油量を考えれば、とてもスタンド一軒では供給が追い付かない。スタンドのタンクの灯油が、一日で売り切れてしまうということも珍しくない」

    だから、今はどうやってこれまで通り二軒のスタンドを維持しようかと考えているところだと、話す。

    長年使用した古いタンクの破損や腐食により、各地のスタンドで油漏れが起きているという事実は確かに深刻な問題ではあるが、そのスタンド自体がなくなってしまえば、今度は住民の命に直結する大問題が起きる。

    それもこれも、生活する上において何不自由のない都市で暮らしている人たちが机上の理論だけで決めたことで、地方の末端で必死に生きている人たちの実情などまったく考慮しない無知の弊害と言わざるを得ない。

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日々の雑感 16 [ちょっと、一息 31]


[雪]日々の雑感 16


    1日に米国で急逝した夫で駿河台日大病院外科部長、山形基夫さん(享年56)と現地で悲しみの対面をした女優、鈴木杏樹(43)が7日、日航機で帰国した。

    グレーのコート姿で憔悴しきった表情の杏樹は、タートルネックセーターで口元を隠して成田空港の到着ロビーに姿をみせた。報道陣から「だんな様には何と言葉を…」と聞かれると気丈に一礼し、そのまま無言で迎えの車に乗り込んだ。

    関係者によると、山形さんは5、6年前から肝臓疾患を抱えながらも、多くの患者から慕われる“名医”としての責務から、精力的に診察や手術をこなしてきた。昨年末に移植手術のためボストンの病院に入院していたが、手術前日に容体が急変。帰らぬ人となった。

    杏樹は日本時間1日朝に訃報を受けると、翌2日に現地へ向かい最愛の夫と対面。悲しみに暮れながらも、夫の帰国手続きなどを行ったという。

    
*  *  *  *  *  *  *


    山形さんとの出会いは98年1月。司会を務めるフジテレビ「ミュージックフェア」(土曜後6・00)出演中に腹痛を訴え、同病院に入院。山形さんの執刀で手術を受けた。パソコンが同じ趣味だったことから意気投合。退院後にメール交換をしているうちに交際が始まり、交際4カ月で婚姻届を提出した。(YAHOO!ニュース)




    ドラマ『相棒』でも「花の里」の二代目女将役が可愛らしい鈴木杏樹。

    以前、トーク番組でご主人のことをこんな風に話していた。

    「お腹が痛くて病院に運ばれた時、この人ならわたしを助けてくれると思った。それからは、食べる物にも気を遣うようにとアドバイスしてくれて、料理についても化学者の目線で色々と教えてくれるんです」

    本当に幸せそうで、観ているこちらまで笑顔になるほどだった。

    命を助けられたというご主人への無上の信頼と安心感が、彼女の言葉の端々から伝わってくる番組だった。

    そのご主人が亡くなるとは・・・。

    今度は、自分の方がご主人を助けなければ----という彼女の思いも届かず、帰らぬ人に----。

    記事を読んでいて、運命の皮肉を感じざるを得なかった。





    山ノ内町の湯田中駅で、数年前から外国人旅行者のための通訳ボランティアをしているという会社員女性のことが、新聞記事になっていた。

    困っている外国人旅行客を見かけると、率先して英語で声をかけ、切符の買い方やバスの乗り方などを教えるのだという。

    仕事の合間の時間を利用しての「おもてなしボランティア」だそうだが、本来ならばこうした活動は地元の観光業者が進んで行なうべきものではないだろうか。

    自分のところの個人的利益だけを考えているため、お金にならなければ誘客運動をしないという業者が大半だが、他人に「おもてなしの心得」を指導するほどのご立派な立場なのだから、そのくらいの矛盾に気付いて欲しいものである。

    研修といいながら、飲み食いするだけの旅行や会合をしている暇があるなら、通訳ボランティアをするための外国語の勉強でもしたら如何だろう?





    最近は、人間の心理や感情などメンタルな部分に関することを生業としている人が増えたが、こういう人たちが書いているブログを見ると、カウンセリング料や、相談料などを記した、ビジネスのための広告として使用しているものが目につく。

    それよりも、せっかくの匿名性が許されるブログである。自分の素性や職業には触れずに、何処にでもいる一人間の顔で記事を書いてみる方が、よほど真の人間観察が出来ると思うのだが・・・。

    「わたしは、これこれこういう者です。こんな資格や、経歴もあります」という具合に、最初から大上段に構えていては、それこそ肩書というフィルターを通してしか人の気持ちを汲むことは出来ない。

    わたしは、最初の頃は何一つプロフィールを公開しなかった。おかげで、現実社会ではまずあり得ない興味深い体験もさせてもらうことが出来た。

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日々の雑感 15 [ちょっと、一息 31]


[リボン]日々の雑感 15


    Facebookの使い方について書かれた記事に、次のような文章があった。




    「マクドナルドでさくっとお昼を済ませたときは写真をアップしないけど、有名なステーキハウスの予約が取れたときは写真を撮りまくるの。意味、分かるでしょ?」とのこと。

    つまり自分が自慢できたり、他人にうらやましがられる体験をしたときには積極的に自分のタイムラインに写真をアップするけれど、そうでないときは沈黙するというのです。写真、行った場所、思ったことなど、全てにおいて、このフィルタがかけられて投稿されるのが、ビジネスで使われるFacebook。

    言い方はアレだけど、仕事をする個人にフォーカスするとFacebookは「リア充アピールのツール」の色を強めていくのだろうか。(YAHOO!ニュース抜粋)




    フェイスブックに限らず、ブログも同じようなことが言えると思う。

    つまり自分が自慢できたり、他人にうらやましがられる体験をしたときには積極的に記事をアップするわけだ。

    このような使い方に、アメリカでは既にユーザーが疲れて来てしまっているという記事である。

    読む方も疲れるし、書く方も疲れる。

    特に読む方は、いちいち羨ましがるコメントを書きこまなければならないというのは、きついものがあるのだろう。

    ただ、お互いに「リア充」を褒め合うことが出来るユーザー同士ならば、まだ疲れ具合は少なくてすむだろうが、そううまくはことは運ばない。

    こうした自らの「リア充」をアピールしたがるユーザーは、他人の「リア充」が悔しくてならないという性格も併せ持つのが普通だからだ。

    他人が自分よりも充実した生活を満喫しているようなことは、絶対に認めたくないのである。

    自分は羨ましがられたいし、褒めそやされもしたいが、他人のことを褒めることなど金輪際ご免だということで、次第に一方的なアピールになって行く。

    そうなれば、もちろん、それまで話し相手になっていたユーザーも、相手に誠意がないことを不快に感じるようになり、友達関係も崩れて行くのは当然の結果である。

    ある人は、「他人のフェイスブックやブログを読むと無性に腹立たしくなるので、近頃は自分以外の人の記事を読むのをやめている」と、話していた。

    その理由が、この上記の一文で判ったような気がする。

    毎日、他人の自慢話を読ませられ続けるのでは、如何に寛容な人の忍耐にも限度があるということなのだろうな。

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日々の雑感 14 [ちょっと、一息 31]


[音楽]日々の雑感 14




    わたしは、出来るだけ毎日散歩をするようにしている。

    極度の骨粗鬆症になってしまったので、日光にあたることと骨をいじめて強くすることは必須の日課なのである。

    とはいっても、雪で凍結した道は転倒などのリスクもあり危険なので、冬は散歩をする日も慎重に選ばなければならない。

    骨を強くするためのウォーキングが、骨折の原因では本末転倒だからだ。

    実は、ウォーキング目的の散歩をし始めたのは、病気がまだひどくなる前からのことで、足の筋肉が弱くなったのは、歩かないせいだと思い込んでいたため、無理にでも長距離を歩くようにしていたのである。

    しかし、足の痛みは一向に改善せず、むしろどんどん悪くなるばかり。

    痛みは足だけではなく、次第に全身へと広がって行ったことで、ついにはまったく歩けなくなってしまった。

    手術のあと入院を経て、歩行のリハビリを開始した時は、まず家の中の廊下を自力歩行できるまでに頑張り、ようや杖をついて外へ出ると、家の周辺を数メートル歩くところから現在にいたっているのである。

    ここまで来るのに、術後約5年を要した。

    杖をつきながら外の道を歩くのは、確かに抵抗があったが、やがてはそんなことにも慣れ、人目を気にすることもなくなった。

    まったく杖を使わずに家の周囲を歩けるようになったのは、手術から約二年後。

    それからは、少しずつ歩く距離を延ばして行くことが出来た。

    それでも、階段の上り下りは容易なことではなく、手すりを頼りに一段一段両足揃えの上り下りしか出来なかった。

    が、近頃は手すりを持たなくても上りだけは何とか出来るようになって来た。

    下りはまだ恐怖心が勝って、うまく行かないが・・・。

    一日一回の散歩は、出不精のわたしにとって良い気分転換にもなるしリハビリにもなると共に、ブログのネタ探しも兼ねられて一石三鳥だ。

    そして、散歩の時は、膝への負担を軽くするために出来るだけ土の道を歩くように心がけている。

    今ではほとんど生活圏から消えてしまった土の道だが、幸いなことに我が家の周囲にはまだわずかだが残っている。

    雪解けの土の上を、湿った枯れ葉の匂いに小さな春の兆しを感じながら歩く山道は、なかなかおつなものである。

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