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相手に良く思われるには・・・ [心理の不思議 16]


[喫茶店]相手に良く思われるには・・・



    ようやく意中の女性と一緒に食事をすることが決定。

    ここまで漕ぎ付けるには、涙ぐましい努力をしたものだ----と、いうのは少々オーバーだが、それでもせっかく掴んだチャンスをものにしない手はない。

    今回のデートがうまく行けば、念願の恋人同士になることだって夢じゃない・・・かも。

    ということで、初めて二人で食事をする店を選ぼうとした時、気を付けたいのがテーブルの形である。

    選んだレストランが四角いテーブルばかりの店だとしたら、それは、一考の余地があるかもしれない。

    四角いテーブルは、まだそれほど親しくない間柄の場合、必然的に向かい合って座ることになる。

    こうした向かい合いの席というものは、普通ビジネスライクに会話をするような場合は良いのだろうが、これから相手との親睦を深めようという時には、あまり適さないものなのだそうだ。

    たとえば、これから別れ話を切り出そうという恋人たちが、肩を並べて腰かけるということはまずあり得ないように、
真正面から目を見詰めあうというのは、下手をしたら敵対心を懐き兼ねないポジションでもある。

    テーブルが少し大きめの場合は、テーブルの角を挟んで腰かけるということも出来るのだが、カップルがレストランのテーブルでこうした位置どりで食事をしていることは、あまりない。

    やはり、自分の印象を相手に良く思わせたい時に必要なアイテムとしては、丸テーブルがお勧めなのだそうである。

    丸テーブルは、その形からして相手に警戒心を懐かせにくいということで、ここに向かい合って座っていても、四角いテーブルほどの緊張を強いることなく会話を弾ませることが可能なのだそうだ。

    また、少し近付くにしても、テーブルの角がないので違和感なく距離を縮められるというメリットもある。

    あまり敷居が高くない雰囲気のレストランで大きすぎない丸テーブルを囲む。

    これが相手に好印象を与えるための、ちょっとしたコツなのだそうである。

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成功の秘訣は・・・ [心理の不思議 16]


[クラブ]成功の秘訣は・・・



    試験でも、競技でも、一番になろうと思うのは、プレッシャーがかかるものだ。

    プレッシャーに負けて、まったくいつもの実力が出せなかったということは良くある。

    そういう時は、一番になろうと思うのではなく、「上位へ入ろう」と、自己暗示をかけておくことが大切なのだそうだ。

    よく「目標は八位入賞です」という選手の言葉を聞くことがあるが、これも、八位と具体的な順位を目標にしてしまうことで、やはりプレッシャーがかかるのだとか・・・。

    つまり、あくまでも漠然と「上位」としておいた方が、自分の想像性を発揮でき、リラックスして試験や競技に臨めるのだそうだ。

    万年二位と揶揄されるような人は、過剰に一位を意識するあまり最後の最後で極度の緊張を強いられてしまい、トップを取れないことが多いそうだ。

    最初から、大きな目標をかかげるよりも、まずは少し頑張ればクリア出来るくらいの小さな目標をコツコツ積み重ねることで、いつしか大きな目標も視野に入って来るのだといわれる。

    試験にしてもスポーツにしても、まずは手軽な範囲での「上位」を狙う。

    それが出来たら、次はもう少し大きな大会などの「上位」を目指す。

    それを地道に繰り返すことが、最終的な目標への到達を叶えることにもつながるのだそうである。

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落ち込んだ気持ちを回復させる方法 [心理の不思議 16]


[ハートたち(複数ハート)]落ち込んだ気持ちを回復させる方法



    今、医療機関などで注目されているものに、「グリーフケア」がある。

    これは、愛する人を病気や事故で失った家族の喪失感や寂しさを、医師、看護師、心理カウンセラーがそれぞれの知識をもとに、癒して行こうという取り組みのことである。

    病院によっては、「グリーフケア外来(悲嘆ケア外来)」というものを設けているところもあるそうだ。

    人の悲しみや辛さは、正に千差万別であるから、そうしたグリーフケアにあたる人たちは、ひたすら患者の話に耳を傾けるということが大切なのだそうで、間違っても、

    「あなたがそんな風に悲しんでばかりいては、亡くなった人は浮かばれない」

    とか、

    「もっと、強くならなきゃダメよ」

    などという励ましの言葉をかけてはいけないのだという。

    そのように落ち込んだ人の気持ちを回復させるためには、黙って患者の言い分だけを受け止めることも大事なのだが、こういう時、音楽の力を借りるという方法もあるそうだ。

    医療機関などへ行った際に、館内にクラシック音楽や日本の唱歌などが静かに流れていることに気付いている人もいるだろう。

    わたしが入院していた病院の入院病棟にも、そんなクラシック音楽がかかっていた。

    音楽には、人の気持ちに微妙な影響を与える力があるので、心理トリックに使うことも出来るのだそうだ。

    単調な仕事をする工場などにも、倦怠感や能率の低下を防ぐためにBGMが流れていることがあり、医療機関にも痛みや心の不安を和らげるために音楽は、よく使われるようになって来たという。

    ある心理学者は、この音楽療法を使い、一人息子を失ってひどいノイローゼ状態にあった知人を息子の好きだった音楽喫茶に通わせることで、立ち直らせることにも成功したそうである。

    そんな音楽療法を行なう時にもっとも効果的な方法があるそうだ。

    落ち込んでいる人にいきなり楽しげな明るい曲を聴かせても逆にその辛い感情に追い打ちをかけてしまい兼ねない。

    そのために、まずはその人の気持ちに寄り添うような悲しい曲を聴かせ、それから徐々に華やかな曲へと移って行くことの方が、悲しみをいやす効果が大きかったとの実験結果もでているのだとか・・・。

    因みに、ノイローゼ気味の人の対症曲としては、ビゼーの「カルメン組曲」や、リストの「ハンガリー狂詩曲」などがお勧めとのことだった。

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人を説得する方法 [心理の不思議 16]


[電話]人を説得する方法



    「料亭政治」という言葉を聞いたことがあるだろう。

    「日本の政治は国会で行なわれているのではない。夜の料亭で行なわれているんだ!」

    何処かで聞いたような台詞だが、かつての自民党が与党時代の政治は、正にこれだったとも言われる。

    どうして、政治家は料亭やホテルの高級レストランへ反対派の議員を呼び出して説得工作などをしていたのか?

    それには、やはりそれなりの心理学的意味があったのだそうである。

    人は、どういう訳か、何かを食べている時に聞いた話には反論しにくいという心理が働くのだそうだ。

    しかも、招待してくれた相手には少なからず気後れもするわけで、加えて食べるという動作への神経の集中が、頑なな思考回路を柔軟にほぐす作用を持っているともいわれるのである。

    そして、食事中は、必然的に食べ物が口の中に入っているので、即座の反論が出来ない。

    相手の話を聞かざるを得ない状況が、自然と作り出されてしまうのである。

    すると、普段は一方的に反対していた感情にブレーキがかかり、もう一度考え直してみようかという気持ちにもなる。

    食べ物を口に入れている時は、人間はかなり無防備にもなるのである。

    そのため、人を説得するためには、料亭へ誘うのが一番効果的だということもあり、食事の席で敵を懐柔するという作戦が取られていたのだろうと思われる。

    そういえば、わたしたちが大学で文芸サークルを立ち上げた時も、話が決まったのは確か新宿のとある喫茶店だったように記憶している。

    一緒にやろうと意気投合した相手は、ほとんどそれまで親しく会話をしたこともなかった学生だった。

    カウンターの席で横に並んで飲み物を飲んでいるうちに、「うちの大学、文芸部のようなものがないよね」ということに話が発展し、

    「だったら、創っちゃおうか」(^_-)

    なんてとんとん拍子に話が煮詰まったのだった。

    肩を並べて食事を共にするということには、殊に不思議な連帯感をも生み出す力があるようだ。

    もしも、あなたが誰かを説得して自分の意見に賛同させたいと思ったなら、こんな手段を使うこともありだということを覚えておいて損はないと思う。

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不愉快という感情 [心理の不思議 16]


[ビール]不愉快という感情



    「あいつは、実に不愉快な奴だ」

    あなたにも、そんな風に感じる人は、身の周りに何人かいるのではないだろうか?

    それは、おそらく、その相手があなたのプライバシーに平気で踏み込んで来るからではないかと推察する。

    プライバシーといっても、別にあなたの部屋へ勝手に上がり込むとか、あなたの携帯電話をのぞき見するなどというような具体的な話ではない。

    あなたが自分だけの領域と考えている生活習慣などについて、やたらに情報を得たがるというような類の話である。

    男性の中には、奥さんに、「今日は何時に帰るんですか?」と、訊かれるだけでも不愉快になるという人もいるそうだ。

    「何時に帰ろうと関係ない。お前にいちいち報告する必要が何処にあるんだ!?」

    たとえ、口には出さずとも、そうむかっ腹を立てている男性は、意外に多いという。

    妻には、夫の帰宅時間を把握しておきたい理由はもちろんある。

    それまでに風呂を沸かしたり、夕食の用意をしておかねばならないからだ。

    だが、当の夫にしてみれば、それを訊かれるのは自分のプライバシーをのぞかれることも同じなのである。特別後ろめたいことなど一切ないが、そこまで妻に干渉されなければならないのか----との苛立ちの方が先に立つ。

    また、妻が作った料理についてやたらに説明するのが鼻につくという夫もいる。

    食卓につくなり、妻が「これは、何処何処の店で買った、100グラムいくらのお肉でね。いつもの味付けじゃ物足りないと思って、こんな香辛料を使って、フライパンで何分焼いてみたの」などの説明を始めるので、うざったくてかなわない。

    そんな夫の声も良く聞こえて来るものである。

    不愉快とは、一口に言うと、自分の精神的領域に遠慮もなく踏み込んで来る、無神経な人間に対して懐く感情のようである。

    つまり、不愉快オーラを発散している人に共通する点は、自分のことしか見えずに、相手の気持ちに対しての気配りが出来ないということのようである。

    自分が発する言葉で、相手がどんな反応を示すかを想像出来ない人たちが増えて来たということなのかもしれない。

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愛を語る人は愛を知らない [心理の不思議 16]


[黒ハート]愛を語る人は愛を知らない



    近頃の歌謡曲には、やたらと「愛」を強調する歌が多いと思うのだが、この「愛」という言葉、わたしにはどうもしっくり来ない。

    「愛は地球を救う」とか、「愛燦々」とか、「愛は祈り」などなど・・・。

    「愛情」というのであれば、何となく理解も出来るが、「愛」という言葉には、何となく眉つばの匂いがしてならないのである。

    分け隔てなく接することが「愛」だという人もいるし、他人のために幸せを祈ることを「愛」だと説く人もいるが、問題はそうされた人自身が、それを「愛」と感じられるかということである。

    ある心理学者は、自分の著書の中でこう言っている。

    「愛を殊更に強調する人は、普通の人より人を愛することが出来ない冷たい人であるらしい。あるいは、普通の人より愛情欲求が満たされない人であるらしい。

    皆で愛を合唱しながら、普通の人より愛を与えることも受けることも出来ない人である」

    つまり、殊更に「愛」を唱える人は、「愛」という言葉さえ発していれば、それで自分の価値が高まるはずだと思い込んでいる安易な人だといえるのだ。

    「愛」を強調する人ほど、お互いの存在には無関心であり、もしも本当に誰かかを助けなければならなくなった時、真っ先に逃げ出すような小心者なのである。

    そういう人は、結局、「愛」という言葉に逃げ込んでいるに過ぎないのである。

    人が本当に必要としているのは、「愛」などという上辺の言葉ではない。

    日々の生活費であり、医療であり、坂道を登るときにさりげなく荷物を運んでくれる手である。

    政治家も政治生命をかけるとは言うが、「命」をかけるとは言わない。

    (野田総理は、今回の消費税増税問題において、それらしき発言をしたそうだが、とても本心から出ている言葉とは思えない)

    「愛」を語る歌手も、「私には歌しかないので、被災地の人を元気付けるために歌うだけだ」というが、「被災地の人が好きな歌を歌う」とは決して言わず、結局、自作の訳のわからない歌を歌って自己満足しているだけのことである。

    「愛」など語る必要はない。

    人が心から欲するものは、格好の良い「愛」などではなく、不器用でも実のある「情」なのである。

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イライラした時の対処法 [心理の不思議 16]


[本]イライラした時の対処法



    イライラする----と、一口で言っても、その原因は千差万別。

    虫が好かない奴がいるとか、子育てが煩わしいとか、義父母との折り合いが悪いとか、会社の上司の説教が癇(かん)にさわるとか、体調が悪いとか、ホルモンバランスが乱れているなんて時も、イライラは起きるそうです。

    でも、よくよく考えてみると、そんなイライラの原因が一つということはないはずです。

    たいてい、イライラする時は、最も根本的なわだかまりを中心に据えて、その周囲をもう少し軽い原因要素がいくつか明滅しているような場合なのだといわれます。

    あれもこれもと煩雑に物事が入り組んだ状態の時、人は特にイライラ感を増大させるのですが、そんな時は、今自分をイラつかせている一番大きな原因は何なのだろうと考えてみることで、苛立ちの正体が浮かび上がって来るのだとか。

    つまり、消去法を使うことで、まずそれほどのイラつき原因ではないと思える事柄から一つずつはぎ取って行き、最後に残ったものが最大の要因であることが見えて来るのだそうです。

    たとえば、こんな具合に。

    子供の塾代を払わなければならない----これは、明日、銀行から振り込む。

    来週末、義理の母親が家へ来る----来週になってから考えよう。

    PTAの会合に出席しなければいけない----この日は午後からなら可能だから、前日に当日の午前中は欠席するとの連絡を入れる。

    でも、まだ何かイライラする・・・原因は何だ?

    そうだ、お腹が空いていたんだ。何か食べよう。

    こんな具合にです。

    どうです?

    何となく自分の見詰め方の参考になりませんか?

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真の意味での親密さとは [心理の不思議 16]


[ビール]真の意味での親密さとは


    「私だけのあなたでいて!」

    こんな風に相手を束縛する家族や友人同士は多いものである。

    こういう関係者には、大概において「あばたもえくぼ」的な感性が付きものなのだそうだ。

    つまり、本当の相手を見ていないのだ。

    そして、相手に自分の理想像を無理やり当てはめて、「きっと、そうなんだ」と、満足している。

    彼らがそんな関係の場合、どちらかに別の親しい人物が現われたりすると、途端に愛情が敵意に変貌したりもする。

    そういう関係は、真の親密さではないとある心理学者は説いている。

    では、本物の親密さとはどういうものなのか?

    それは、自分と相手が親しい間柄だとして、もしも相手に別の親しい友人が出来てもそのことを不快に感じたりしないという関係なのだという。

    もちろん、相手のことが大好きではあるが、相手の欠点も欠点として受け入れられることが大切で、そこにはごまかしがないということなのである。

    とかく、大好きな相手の欠点は見たくないものだから、それには目をつぶるという選択をしてしまいがちである。

    しかし、そういう関係に真の友情や愛情は育たないのだそうだ。

    



    とはいっても、これは実に難しい。

    親密だからこそ、相手を束縛したがるのであって、相手がどんな人と付き合おうが関係ないと思えるなら、それほど相手に関心もないということに他ならない。

    相手の欠点は欠点としてしっかり認識しつつ、さらに相手を好きになれるか?----と、いうことも、至難の技といえよう。

    親子、兄弟ならばそうしたことも可能かもしれないが、友人同士や恋人同士など元は赤の他人ともなれば、よほど心が広い人でもない限り、そこまでの愛情を持続できるかは疑問だ。

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日本人にはサディストが多い [心理の不思議 16]


[時計]日本人にはサディストが多い



    「あら嬉し、隣の蔵が売れてゆく」

    「人の不幸は蜜の味」

    こんな言葉が示すように、外国人の目から見ると、日本人にはサディスティックに他人の不幸を喜ぶ人たちが多いらしい。

    肉親を亡くして悲しんでいる人に、平気で知った風な顔で説教をする友人もいるし、結婚式で新郎新婦を心から祝福している人たちを見たことがないという人も多いはずだ。

    もちろん、表向きは「おめでとう」を連発するが、新郎新婦抜きの二次会、三次会では出席者の本音が炸裂するのは珍しいことではない。

    「まあ、三年持てばいい方だね」

    「新郎、実は本命は別にいたんだよな」

    そんな陰口を叩き合うのが楽しくて、披露宴へ出席するという人もいるほどだ。

    どうして、日本人は、ここまで他人の幸福を妬んだりけなしたり出来るのだろうか?

    それは、日本人の多くが自分に真の意味での自信がないという理由からだという。

    明日の生活がどうなるか判らないという漠然とした不安が、日本人にはいつも付きまとうあまり、自分の生活や地位に満足するなどの心の余裕を維持できないのである。

    そんな日常茶飯事の危機意識が、他人も自分同様に不幸であることを期待するのである。

    こうしたマイナス思考は日本人のDNAに組み込まれているともいわれ、世界から見ても日本人ほど未来に不安を懐きながら暮している国民はいないのだそうだ。

    日本人が勤勉だと言われる理由も、要は明日を信じられないという性格にあるのではないかと思う。

    そんなことを考えた時、民主党の増税説明が思い出された。

    「未来の国民に負担を押し付けることがないように・・・」

    如何にも、日本人的な考え方である。

    誰か政治家の中に、たとえ冗談でもこんなことをうそぶく人はいないのだろうか?

    「いいじゃないか、今がよければ。人生、明日は明日の風が吹くだろう」

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ジョーカーの心理 [心理の不思議 16]


[映画]ジョーカーの心理



    先日放送された映画バットマン・ダークナイト」にジョーカーという悪役が登場する。

    あのピエロのように顔を白く、口を真っ赤に塗りたくった異常にベラベラと自説をまくしたてるウザい悪党である。

    ジョーカーは、人間が自分以外の人の幸福を望むことなど偽善であるということを証明したいがために、あらゆる手段を講じて悲劇を演出する。

    それは、ジョーカー自身が人間を信じていないことの証拠であり、究極の不幸を背負うものだということの証でもあるのだ。

    何故なら、不幸な人は他人も不幸になることを望むし、惨めな人は、他人も惨めになることを期待するからである。

    しかし、そういう人は、どういう訳か自分が幸福になろうともしない。

    普通は、相手を不幸に陥れて、自分は幸せをつかもうとするのだが、本当に不幸な人は決して幸福になろうとは思わないのだそうである。

    おそらく、ジョーカーもその類の悪党なのだろう。

    自分が窮地に追い込まれれば追い込まれるほど、その境遇に快感を覚えたり満足感を得るのだ。

    いわゆる破滅型犯罪者の典型のような男なのである。

    つまり、ジョーカーの前でこれ見よがしに正義を振りかざすバットマンは、とにかく意味もなく憎い相手ということになるのだ。

    では、このジョーカーをどうしたら改心させられるのか?

    それは、バットマンがジョーカー以上の悪役になることで、ジョーカー以上に人々から恐れられる存在となればいいのだ。

    ジョーカーは、自分が特別な悪の存在でなくてはならないと考えているのだから、その意味が薄れるなど決して容認できるはずはない。

    悪の権化となったバットマンを潰そうとするジョーカーは、必然的に正義のヒーローとなるしか道はないのである。

    善も悪もコインの表と裏のようなもの。

    どちらに転んでも、結局は人間の行き着くところなど皆同じなのだということを、あの映画は教えているような気がした。
    
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