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今どきのアラフォー [日々の雑感 13]


今どきのアラフォー


    
    数年ほど前から気付いていたのだが、スーパーマーケットなどで買い物をしていると、俗にアラフォーと呼ばれる40歳前後の主婦たちのある共通点に目がとまるようになった。

    この共通点に関しては、先日、新聞にも取り上げられていた。

    それは、彼女たちの体型が、必要以上に細身で背が高いということなのである。

    確かに、アラフォーと思われる女性たちのスタイルは、とにかく細い。

    薄っぺらという言葉が当てはまるほど、痩せているのだ。

    背も平均して160センチ以上はあるものと思われる。

    いったい、何を食べていれば、このような体型になるのであろうか?

    しかし、だから美しいのか----?といえば、断言できるほどの成果ではない。

    器量は皆、良くも悪くもない十人並みで、痩せすぎのせいか表情にあまり生気が感じられないのだ。

    髪の毛にも艶がなく、地肌が透けて見えている女性もいる。

    極端な食事制限が、あのような容姿を作っているのだと思う。

    おそらく、学校関係者の集まりや地域の交流会で、体型的に恥をかきたくないという女心が必要のないダイエットを敢行させるのかもしれない。

    それにしても、どうして彼女たちは、このような横並びのスタイルになってしまったのだろうか?

    「みんなで痩せれば怖くない」

    そんな言葉が聞こえて来そうだ。

    痩せ方までも没個性にならねばならない日本人の自立心のなさが、垣間見られる現象と言わざるを得ない。

    ところが、不思議なことに、そんな一般社会の現象をしり目に、芸能界では肥満体型のタレントたちが隆盛を極めている。

    森三中や柳原可奈子、山田花子、ハリセンボンの近藤春菜など、実に個性豊かな可愛らしさでお茶の間を席巻しているのだ。

    彼女たちを見ていると、何故だか日本女性の魅力も捨てたものではないと、ホッとする。

    明るくて、頭の回転が速く、気が利いていて、和む・・・・。

    つまりは、一般社会の女性たちの考え方や体型に個性がなくなったことが、日本全体の気力を消沈させている原因なのかもしれない。

    ダイエット、ダイエットでイライラ感がつのる女性たちの、とばっちりを受けるなど真っ平である。

    子供の虐待も、案外そういうささいなことが発端なのかもしれない。

    アラフォー女性たちに限らず、日本の若い女性たちに言いたい。

    体型など気にせずに、もっとたくさん食べなさい----と。

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言葉の魔術 [日々の雑感 13]


言葉の魔術



    言葉というものは、同じことを話すにしても、その言い方で相手への影響がまったく異なって来るものである。

    以前、このブログに書いたが、何か人に訊ねる時にも、相手が答えられやすい訊き方と、答えにくい訊き方があるのだ。

    「あなたは、どんな映画が好きですか?」

    いきなりこう訊かれても、訊かれた方は、映画のジャンルを訊かれているのか、それともタイトルそのものを訊かれているのか、戸惑ってしまう。

    いや、そもそも、質問を投げかけられた人が、映画自体を好きかどうかも判らない。

    そういう時は、まず、

    「あなたは、映画をよく観る方ですか?」と、訊ねてから、「ええ、よく観ますね」と、返事が来たら、

    「では、どういうジャンルが好みですか?アクション系?恋愛系?それとも、ホラーかな?」

    と、具体的に種類を持ち出してやることで、相手も返事がしやすくなるというものなのだ。

    「主に、往年のラブストーリーを良く観ます。オードリー・ヘップバーンが好きなので・・・」

    「そうですか。では、ヘップバーンの映画で、何が一番好きですか?」

    「『ローマの休日』が最高ですね!」

    こういう具合に話を運んで行くと、相手の好みや趣味がはっきりと判るのである。

    一見、まるで、英会話の教材かとも思えるような言葉運びだが、これが案外会話を長続きさせるコツでもあるのだ。

    実は、先日、どうにも会話が噛み合わないことがあった。

    母親を二度目に病院へ担ぎ込んだ時、担当して下さった医師が、ベッドで横になる母親に向かい、

    「何回、吐きましたか?」と、訊ねた。

    母親は、「吐きっぱなしです・・・」と、答える。

    母親にしてみれば、自動車に乗っている間中、常に間断もなくビニール袋の中へゲェゲェやっていたので、そう答えたのだが、担当医師は、おそらく、

    「胃の中の物が口から出たのは何回ですか?」

    と、訊きたかったのだと思う。そう質問されていたら、たぶん、母親も、

    「胃の中は、もう空っぽですから、黄色い水のような物しか出ませんでした」

    と、答えられたのである。

    つまり、言葉とは、ちょっとした言い回しの違いで、相手の答えも変わって来るのである。

    また、答えにくくもなったり、気軽に返事が出来たりもする。

    些細なことだが、言葉の選び方一つで、重大なことを聞き出すことが出来たり、逆に聞き漏らしたりもするのだ。

    相手が返事に困っていたら、まず、自分の方から具体例をあげて、相手がYESかNOで答えられるような質問の仕方をお勧めする。

    そうやって、小さなとっかかりが付けば、今度は簡単に相手の方から色々と話し出してくれることもあるのだ。

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大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」 [日々の雑感 13]


大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」



    今年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」に対する評価が、真っ二つに分かれているそうですね。

    究極の駄作だ----と、いう人たちと、判りやすくアクがないので安心して観ていられる----という両極端の意見の人たちがいるとのことです。

    しかし、割合的には、辛口評価の人たちの方が断然多いようで、脚本に対する酷評が大半を占めているといいます。

    今回の脚本を担当しているのは、同じく2008年の大河ドラマ「篤姫」の脚本を書いた作家だそうで、この「篤姫」が女性たちの間でかなりの高視聴率を稼いだこともあり、再びの登板となったようです。

    ところが、今度の「江」に関しては、どういう訳か以前の華やかさや物語のキレがいま一つで、俳優たちの演技にまでそれが影響し、つじつま合わせの感が強い、その場しのぎのストーリー展開になっているとの意見が多いそうです。

    つまりは、「篤姫」の時は、原作がしっかりしていたので脚本家に特別な文才がなくてもあのくらいのドラマ内容には容易になったということです。

    ところが、今回の「江」に関しては、脚本家がほぼすべての筋立てを考えなくてはならないために、その力量のなさが露呈してしまっているとの見方をする視聴者も多いとのことでした。

    確かに、どう考えても年端もいかない九歳の娘の江が、伯父・織田信長や明智光秀に意見するようなシーンは、あまりに荒唐無稽と言わざるを得ません。

    まあ、上野樹里が、九歳児を演じることがそもそも荒唐無稽の事態なのですけれどね。(笑)

    でも、もしも、この役を年相応の子役が演じていたとしたら、また、受ける印象はかなり変わったのではないかと思うのです。

    わたしは、以前から、時代劇が現代劇と最も違う要素は、子供も大人も同等な目線で描けるというところにあるのではないかと思っているのです。

    つまり、子供を子供扱いせずに描けるということで、昔、「編み笠十兵衛」という高橋英樹主演の時代劇がありましたが、ここで、主人公の十兵衛が、幼い男の子を前にして、まったく大人に向かうような丁寧な口調で話しかけるシーンがありました。

    こういう物語設定は、現代劇では絶対にありえません。

    しかし、「女子供」というようなくくりで、子供を一人前以下として扱うようになったのは、おそらく明治以降のことではないかと思います。

    その前までは、たとえ十歳の子供といえども、身体は小さいものの精神は一人前の大人と同様に扱っていたものです。

    そのことを考えれば、「江」のストーリー構成も、あながち間違いではないのかもしれません。

    わたしの聞いた話が正しいとすれば、江は、こののち十一歳という年齢で嫁ぎ、十四歳の時お腹に子供がいるにもかかわらず出戻ります。現在の法律に照らせば、正に犯罪ですね。

    そんなこんなで、生涯にわたり三度もの政略結婚を強いられ、戦国という時代の中で子供を産む道具同然に使いまわされたというのが江という女性の真実の姿なのだそうです。

    でも、結局、彼女がいたことで、織田信長の血が徳川幕府へと引き継がれ、信長は江を通して天下を掌中にして太平の世を築くという野望を成し遂げることになったわけです。

    本能寺の変の際、自害した信長の遺体はついに発見されませんでしたが、のちに江が家康の子の徳川秀忠との間に儲けた家光(一説には秀忠の子ではないとも言われる)が、さしずめ信長の生まれ変わりではなかったか----と、考えることも出来るのです。

    何故なら、信長は森蘭丸などの小姓を寵愛していたという説もあり、家光もまた女性には興味を示さないことで有名な徳川幕府の三代将軍だったからです。

    歴史には、さまざまな要素が想像されてこそ、面白みもあるというものです。

    今回の大河ドラマは、一話完結の戦国版「のだめカンタービレ」として、楽しむのもアリではないかと思います。

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目に見えない不思議な力 [日々の雑感 13]


[ぴかぴか(新しい)]目に見えない不思議な力


  
    「九死に一生を得る」と、いう話を耳にする時、そこに不思議な偶然の力が働いているのではないかと思える場合がある。

    たとえば、ある男性は、1923年の関東大震災の際、家のトイレに入っていたのだが、向かいの雑貨屋にたくさんの風鈴が下がって鳴り響いている様子を見たくなり、トイレから飛び出して家を出た瞬間に、あの大地震が起きた。

    後ろを振り向くと、自宅がぺしゃんこにつぶれていて、正に命拾いをしたということである。

    また、ホテルの火災が起きる直前に、用事が出来てそのホテルを離れ、九死に一生体験をしたとか、墜落した旅客機に乗るはずだった男性が、空港で突然腹痛を起こし、一便遅らせたおかげで助かったなどという話もある。

    こういう話を聞くたびに、何かしら、人間の能力では考えられない目に見えない力が働いて、その人たちの窮地を救っているように思えるのである。

    実は、先日、亡くなった叔父の家へ行こうと家を出た両親の件も、それに似通ったシチュエーションが重なっていたような気がするのだ。

    両親が家を出る前、叔母の家の住所がうろ覚えだったので、親戚の家へ電話をかけて訊ねたところ、

    「連れて行ってもらったことはあるが、よく判らない」

    との返事。思い返してみれば、もう既にこの時点からおかしな状況だった。

    そして、叔母の家の住所が判らないまま、自動車で走り続けるうちに母親がひどい車酔いになり、父親だけは何とか叔母の家までたどり着き悔みを述べることが出来たが、結局、母親は行けずじまい。

    その帰り道、ついに母親が動けなくなる。

    そのまま、しばらく休んでいれば酔いもおさまり、もう一度叔母の家へ行くこともできたようだが、想定外に、周囲の住人たちが何人も出て来て救急車を呼んでしまう。

    救急車で病院へ運ばれて治療を受けるが、どうしても動けない。

    とうとう、昼過ぎから夜中まで病院で過ごすこととなり、母親は叔母の家へ行けなかったのである。

    まるで、何物かの力が働き、母親を叔母の家へ行かせまい、行かせまいとしているかのように、わたしには思えた。

    こういうことが重なる時は、決して無理をせず、運気の流れに逆らってはいけないと聞いたことがある。

    わたしは、別段、運命論者という訳ではないが、人も動物である以上、もしかしたら、本能の何処かでそうした危険や災いを無意識のうちに察知している可能性も無きにしも非ずなのだ。

    しかも、なお不思議なことに、この日、わたしだけが家へ残ったのは体調に不安があるからだけではなく、何故か、甥から電話が入るような気もしていたからである。

    すると、案の定、甥が高校入試合格の電話をかけて来た。

    人生には、予期せぬ出来事というものがある。

    しかし、よくよく考えてみれば、それもすべてその人間自身が引き寄せていることで、単にそのことに気付いていないだけなのかもしれない。

    そんなことを、ちょっと考えるきっかけになった、今回の出来事であった。

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犬は怖いが、タバコは欲しい [日々の雑感 13]


犬は怖いが、タバコは欲しい



    「ふぐは食いたし、命は惜しし」

    こんな戯れ歌を聞いたことがあるが、昨日、これに似たようなことがあった。

    一人の青年が我が家を訪れ、

    「タバコが買いたいんですけれど・・・」

    と、言う。こちらが、

    「うちは、タバコ屋じゃないですよ」

    と、言うと、

    「それは、判っているんですが・・・」

    と、何とも歯切れが悪い。

    「実は、タバコの自動販売機のあるお店で買いたいと思っているのですが、そこに犬がいるんです」

    青年は、犬が大嫌いなのだそうで、自分の代わりにタバコを買って来て欲しいというのだ。

    「お金は、出しますから、お願いできないでしょうか?」

    確かに、そのお店には犬がいる。でも、大人しい犬で、人に吠えかかるということは今まで一度もないし、むしろ、客が来れば家の中へ入って、家人を呼んで来るほどの賢い犬である。

    「あの犬なら、大丈夫ですよ。体は大きめですが、何も悪さはしません」

    こちらが説明しても、青年は、やはり怖いと言う。

    確かに、犬嫌いの人にとってみれば、犬が大きかろうが小さかろうが、嫌な物は嫌だろう。

    すると、ちょうどタイミング良く、そのお店の人が我が家の外を通ったので、

    「あの人が、その店の人だから、犬を家の中へ入れて欲しいと頼んでみたら如何ですか?」

    と、アドバイスした。青年は、ホッとした顔で、その人の方へと歩いて行った。

    「そこまでしても、タバコが吸いたいのかなァ・・・」

    父がため息をつく。

    しかし、そういう父だって、禁煙する前までは、タバコがポケットに入っていないと落ち着かないとさえ言っていたはずなのだが・・・。

    人間とは、実に勝手な生き物である。(~_~;)


***  写真の犬は本文とは関係のない近所の飼い犬です。

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すこぶる呆れ返る話 [日々の雑感 13]


すこぶる呆れ返る話


    母親がひどい自動車酔いのため病院で検査を受ける予定になっていたのだが、今日になっても体調が万全でない。

    「しばらく車には乗りたくない」

    と、言うので、地元の開業医さんで診てもらうことに決め、あちらには検査をキャンセルする旨を連絡した。

    ところが、その応対ぶりに驚いた。

    一口で言えば、患者の都合よりも、診察した医師のメンツを立てて欲しいというのだ。

    「とにかく、筋を通せ」というのである。

    わたしは、まるで、極道世界の話かと驚愕した。

    筋だのメンツだのという話が、病院スタッフ(女性看護師)の口から飛び出すとは思いもしなかったからだ。

    問題は、そんなことよりも、患者の気持ちや体調の方が大事だろう。患者がどんなに苦しんだとしても、医師のメンツの方を優先するのか?

    母を診察して下さった医師は、そんなことにこだわるような人ではないと思う。

    「もし、どうしても大変なら、近くの開業医さんに診てもらって下さい」

    と、言ってくれたのは、その医師なのだ。ところが、その後、別の医師(女性研修医)が、診察して下さった医師の言葉をさえぎるように現われ、ヒステリックに色々検査をしろと言い出したのである。

    確かに、身体に重大な病気が隠れているかもしれないし、それが確定しない以上治療が出来ないと懸念する気持ちも判らないではないが、そんな多くの検査に頼らずとも、本当に実力のある医師ならば、問診やこれまでにやった検査から、確実な診断を導き出せるはずであるし、また、これまでのベテラン総合診療医はそうして来たはずだ。

    まずは、出来るだけ患者の体や心に負担をかけずに治療をするというのが、医療人の基本ではないだろうか。

    わたしを診察して下さっている先生方は、それをいの一番に考えて、日々、患者の診療に尽力しておられる。

    なのに、最近の医療は、高齢者やその家族が医療機関を利用したら、患者や家族の意思は無視して、自分たちの都合だけを優先すべし----というマニュアルが出来ているのではないかとさえ感じることがある。

    しかし、少し前までは、そんなことはまったくなく、スタッフたちはとても親切かつ気さくに患者とふれあってくれていた。

    何かが、おかしい・・・・。

    病院中がイライラしている。

    わたしの感覚が変なのかと思い、母と同じ病院に通う近所の人たちにも訊いてみたが、やはり、同様の印象を持っていた。
 
    患者を人と思わないような雰囲気がまん延しているのならば、これは大きな問題だと考える。

    たぶん、もう、病院には連絡しない。

    あのようなケンカ腰のヤクザまがいの言い方をするスタッフと水掛け論を戦わすほど、こちらも暇ではないのだ。

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第二の人生は仏門へ [日々の雑感 13]


第二の人生は仏門へ



    新聞を読んでいたら、面白い記事が目にとまった。

    元大手家電メーカー役員をしていた柴田文啓さん(75)という人が、千曲市八幡の開眼寺という寺で住職をしているという記事である。

    福井市出身の柴田さんは、10年前に専属住職としてそれまで住職が不在だった同寺へ入り、今では、地域の人たちに「おっしゃん」と呼ばれて慕われているという。

    座禅会を毎週開いて住民たちとの交流の場を設けたり、不登校の子供やその親、働く意欲がわかない若者の相談に乗り、また、同寺滞在中に自殺しようとした女性を助けたこともあるという。

    そして、柴田さんは、

    「お寺の住職のような人さまから相談を受ける仕事は、人生経験を積んだ人の方がよい」

    との考えから、定年を迎えた人達の第二の人生の選択肢の一つとして、仏門へ入る道を提案している。

    地方では、住職のいない無人の寺が増えている。

    そういう寺の住職の担い手として、定年退職した人たちの力に注目したいというのだ。

    「定年後、毎日ゴルフばかりではすぐに飽きる。世のため人のためになることが生きがいにつながるのでは・・・」

    語る柴田さんのような人が大勢出てくれると、過疎化が進んだ村のお年寄りたちも安心出来るのではないだろうか。

    いつの時代も、寺は地域住民の心の拠り所でもあり、いざという時は子供たちの避難場所にもなる。

    わたしのいる地域にも、かつて尼寺だった梅翁寺という寺があるが、一時、無人となり荒れ放題であった。

    ところが、ごく最近若い住職が入り、境内も手入れが行き届き、見違えるように美しくなった。寺の前を通る園児や小学生の表情にも安心感が見えるような気がする。

    六十代は、まだまだ現役世代。

    そんなお父さんたちの第二の人生に、出家という選択肢もありではないかと、記事を読んでいて思った。

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長~~~い一日 [日々の雑感 13]


長~~~い一日



    一昨日の夜、入院していた叔父が亡くなった。

    そして、昨日の朝、両親が父の運転する自動車で一人になった叔母の家へと向かった。

    わたしは、体調の都合もあり、家へ残った。

    まあ、今日は叔母にお悔やみを述べるだけだから二、三時間もすれば戻って来るだろうと高をくくっていたところ、お昼前になって、突然、父からの電話。

    叔母の家へ行く途中で、母が車酔いになり、車を止めて欲しいと言うので、近くの駐車場へ入れたところ、外へ出てしまい、動きたくないと言い出してしまったという。

    父は、携帯電話を持っていないので、そばの公衆電話から電話して来たのだった。

    わたしは、急いで従姉の家へ電話をかけ、駐車場にいる両親のところへ行き、父親だけを拾って叔母の家へ届けて欲しいと頼んだ。

    母を自動車の中へ置いておかねばならないので、それを動かすことが出来ないからだ。

    従姉は、即刻父を迎えに行ってくれて、叔母の家での悔みを済ませると、再び駐車場で待つ母のところへ戻り、自分の車で帰って行った。

    父は、母を助手席に乗せて自動車を動かす。ところが、また車酔いはひどくなり、「止めて!止めて!」と、叫ぶので、またまた、ある事務所の駐車場で休むことに。

    すると、そういう母の苦しむ様子に驚いた事務所の人たちが、な、なんと救急車を呼んでしまったのだ。

    いや、本来ならば、呼んで下さったと言うべきなのだろうが、まさかの展開となった。

    そして、我が家に、その事務所の人から電話が入り、一部始終の状況を説明。わたしは、その後、病院へ入った父からかかって来た電話に、とにかく、その事務所の駐車場へ置きっぱなしの自動車を運転して、家まで戻ってきて欲しいと言った。

    父は、治療中の母を病院へ残して帰宅。今度は、わたしが自動車で、病院へ向かった。

    点滴や一通りの検査などをした母の治療が終わり、まだ、ふらふら状態の母を自動車に乗せて病院を出た時は、既に夕方になっていた。

    ところが、母は、またもや「気持ちが悪い。車を止めて!」と、叫ぶ。そして、赤信号で止まった途端、自分でドアを開けて外へ飛び出してしまった。車の中では嘔吐し続けていたものの、もう、強引に家まで連れて帰ろうと思っていたのだが、油断した。

    母は、夕方の帰宅ラッシュの道路脇にしゃがみ込んでしまったので、どうしようもない。

    再び、母を車に積むと、病院へと戻るしかなかった。

    救急外来の処置室で、点滴をして横にならせてもらい、それから約七時間。

    わたしは、途中で一旦家へ帰ったところ、夜中の0時過ぎになって、付き添いを交代した弟が何とか母を運んで来てくれた。

    母は、昔からかなりひどい自動車酔いをする体質なのだが、今回のはちょっと想定外にひどかった。

    今日は昨日の奮闘がたたり、一日グッタリで、今だに背中が痛い。

    治療して下さった医師は、改めてしっかりした検査をして欲しいと言っていたが、難しい問題だ。

    何せ、乗り物に乗ると、またこの状態になることは明白だ。

    病院まで行くことが出来ない以上、検査も無理ということになる。

    とにかく、長~~~い一日だった。

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中野市から来る女性たち [日々の雑感 13]


中野市から来る女性たち


    昨日、共同浴場へ行ったら、あとから入って来た中野市の女性に、「お湯が熱いので、水を埋めて欲しい」と言われた。

    しかも、その言い方が、「水、出てますか?」というのだ。

    「出して欲しいの?」と、こちらが訊くと、「はい」と、言う。

    まるで、出ているのが当然だと言わんばかりの口ぶりである。

    そもそも、中野市の人は、このお風呂へ入ることが出来ない筈なのに、どうして鍵を持っているのかが判らない。

    わたしは、もう入っている気がしなくなったので、即、浴室から出てしまったが、この二年ほど前から何故か中野市民が何人も入りに来るようになったのだ。

    しかも、入浴資格のある近所の住人よりも偉ぶった態度である。湯船の中で泳ぐ人もいる。

    わたしが脱衣所へ上がったあとで、浴室内にいた近所の女性とその中野市の女性とが、お湯の温度のことで口論を始めた。

    「家庭風呂ではないのですから、自分の好きなように水を入れるようなことはやめて欲しい」

    と、近所の女性は声を荒らげた。が、相手は、平気なものだった。

    あまり、横柄な態度をとるのであれば、大人しい近所の主婦たちもおそらく黙ってはいないだろう。

    役員さんに直訴する人も現われるかもしれない。

    そうならないうちに、彼女たちにも、外湯へ入れて頂いているのだという気持ちで、もう少し謙虚になって欲しい。

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当たりさわりのない人間関係って・・・ [日々の雑感 13]


当たりさわりのない人間関係って・・・


    
    テレビドラマの時代劇を観ていると、旅先でほんの数時間相部屋になっただけで、相手の仇討のための助太刀を買う破目になるというようなシーンが出て来ることがあるが、これは、何も全くの作り話ではないようだ。

    かつての日本人同士には、確かに「袖振りあうも他生の縁(この世のわずかな関係も、前世からの因縁によるもの)」という考え方があった。

    だから、一度知り合った者には、とことん付き合うというようなこともさほど珍しいことではなかったのである。

    そのために、かつての偉人伝などを読むと、どうして、これほど貧しい人が大富豪になれたのか?などということが普通に起きている。

    つまり、主人公とかかわった人たちが簡単に彼を見捨てないからなのである。

    しかし、今の世の中の人々は、そうした必要以上の人と人との関わりを嫌う。一見、親切そうに手を差し伸べたように思えても、とことんその相手のために尽くそうとは思わない。

    すべて中途半端なのだ。

    いや、中途半端ならまだいい方で、見て見ぬふりをして通り過ぎる人たちの方が断然多いのが現実である。

    自分自身に余裕がない人間が世の中に多すぎるのかもしれないし、もともと他人のために手を貸すなど馬鹿げていると思い込んでいる人もいるだろう。

    ホテルなどへ行った時に、ボーイさんが現われて「お荷物をお運びします」などと言って、旅行カバンを持ってくれる場合があるが、わたしは、これを拒否することが多かった。(かなり昔の体験だが)

    だって、このボーイさんが荷物を運んでくれるのはホテルの中だけで、一歩ホテルを出れば結局その重い荷物を自分で運ばなくてはならないわけで、そんなわずかな距離を運んでもらう程度の親切など何の意味もない、むしろおためごかしで迷惑だ----と、思ってしまうからだ。

    どうせ、「お荷物をお運びします」というのなら、駅までも運んでくれるのが本当のサービスではないかと言いたいのだ。

    そういう中途半端な親切に飽き飽きしているのは、わたしだけではないだろう。

    上辺だけの当たりさわりのない関係を好むという風潮が、いつ頃から日本に根付いたのかは定かでないが、人々が必要最小限の関わり合いしか求めなくなって来た要因の一つに、スーパーマーケットの販売方式があるようにも思える。

    そして、それは、家電量販店などの「電気製品はお買い上げいただいたお客様が取りつけて下さい。こちらは、販売するだけです。そして、故障したら、ご自分でメーカーと交渉して下さい」という、最悪の商売の仕方へとつながっているのである。

    こんな世の中であるから、必然的に他人のことなど無関心になる。

    相手の気持ちに一歩踏み込もうとしても、そこから先はガッチリとガードして決して入り込ませない。

    そんな無味乾燥人間ばかりが増殖した日本に、かつての高度成長時代のような活気が取り戻せるはずがないのである。

    日本が世界第二位の経済大国の座を中国に奪われたのも、当然の結果なのだ。

    人の心の結束が崩れ、ぶつ切り状態になっている社会に成長など望むべくもないことは、自明の理と言わざるを得ない。

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